夏休みなのでブログを更新しました。

夏休みで暇なのでブログを更新しようと思った。どこに出しても恥ずかしくない立派な理屈だえっへんなんて胸を張っていたら、ブログをやっていることすら恥ずかしくて知り合いには誰にも教えていないことを思い出してちょっと恥ずかしくなった。それはさておき。

 

最近は暑いから押入れの本も窮屈してそうだなと思ったので部屋の中に広げてみた。思ったよりも少ないなゴタゴタのときに半分くらい手放してしまったんだっけななんて思い出に浸りながら、高校生くらいの頃に読んでいたエッセイをぺらぺら捲った。

その中にこんな文章があった。

ラヴィン・スプーンフルの音楽はいつ聴いても素敵だ。必要以上に自分を大きく見せようとしない音楽だ。 

 僕は音楽に対して造詣が深くないどころのレベルじゃなく全くの素人で、音符だって音階だってなんのことかさっぱりわからないし楽器だってできなくて当然だと思っている。それくらい音楽はよくわからない。ミュージックプレイヤーにある程度の数の音楽を入れて移動中に聴いたりもするが、それだって精々耳に心地よいかそうではないかくらいの感想しか出てこない。だからこそこの“必要以上に自分を大きく見せようとしない音楽”というところにひっかかった。このようなことをある程度音楽をたしなむ人なら考えたり感じたりするのだろうか。

僕がラヴィン・スプーンフルの音楽を知らないせいかと思って、何曲か聴いてみたけれどよくわからなかった。

これが音楽ではなくて映画だったら話は違ってくるのだろうか。おそらく僕は同年代の中では映画をそれなりの数を観てきたほうだと思う。めっちゃ暇だったから。そうなるとほとんど映画を観たことのないひととは、同じ映画を観てもまた違った感想を抱たりするのだろうか?

いやこの映画は監督がこんなものが趣味で~~とかこの映画はシリーズものだけれど途中で監督やスタッフが変わってしまったから~~みたいな事前の知識が必要なものとは、今回は違うと思う。というよりも映画と音楽では関わる人間の数が違うのだからまた別の話なのかもしれない。どちらもある種の芸術だろうことは間違いないとは思うけれど、だからといって同様に扱ってもいいものではないのかもしれない。

昔買ったCDに、評論家が収録されている曲それぞれに長いコメントを入れているような冊子が挟まっていたことを思い出した。ついでに高校生の頃に使っていた国語便覧の小説家の作品に対する解説やコメントなんかも。

えらい人がラヴィン・スプーンフルの音楽は必要以上に自分を大きく見せようとしない音楽なんだといえば満足するのかといえばそういう話ではない。僕が自分を大きく見せようとする音楽を知らない、自分を大きく見せようとしない音楽を知らないからという訳ではないんだと思う。じゃあ僕がそのエッセイの作者と同じ年になればわかるのかといえばそういうわけではないし、作者が聴いてきた音楽を一通り聴いてくればそう感じるのかという訳でもないと思う。じゃあ僕が必要以上に自分を大きく見せようとしない音楽なんだと感じることは出来ないのかというとそういうわけでもないと思うしそういうことじゃないといいな。この辺りでどう着地させるのか考えるのが面倒になったので、おしまいにしたい。ここまでお疲れ様でした。

他人が考えたことの理屈が知りたいし感想を持った過程を知りたい。そういう欲求が多分僕にはある。でも残念ながらそのあたりを詳しく説明してくれる人はほとんどいないから、自分で想像するしかないのだけれど、やっぱり無理がある。ついでに思い付きで文章を書くのもかなり無理があるのだと思い知った。エッセイ書ける人はすごい。というわけで次はちゃんと着地させようと思いました。おわり。